奄美<環境文化>教育プログラムのしおり
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美大島在住奄 濱田 政信さん 講義のポイントをよく理解していただいていて、奄美群島がどんどん立体的にみえてきているのではないでしょうか。 ご質問については以下のとおりです。参考にされてください。②硫黄鳥島については、沖縄県領地として取り扱われたということですよね。③ペリー来航の航路は、ご指摘のとおり大西洋航路ですが、当時は蒸気船で、燃料の石炭と水の補給が必要だからでした。経済的なアジア進出を計画していたアメリカは、太平洋航路の開発を急いでおり、中継基地となる補給地の調査も進めていました。ペリー艦隊がこの時に小笠原諸島、南西諸島を調査した情報は、太平洋戦争で利用され、硫黄島戦、沖縄島戦に繋がります。④「国境離島」の役割が明記されている事実は、情報は開示されているにしても、奄美群島に暮らしているみなさんはほとんど知らないのでは。※水温勾配は、緯度が北側にいくほど水温が低くなっていく様子を意味しています。水温の低下に伴い、サンゴ礁地形は発達しなくなります。与論島のような大規模なサンゴ礁地形は、奄美大島や喜界島では見られなくなるということです。講義をふまえつつ、あなたが奄美史で印象に残ることや関心を覚えたことについてまとめてください。また、講義の感想や質問などがあれば書いてください。R.3年 | 科目104 |奄美の環境文化の基礎3(歴史) 高梨①<境界>地域という概念からひも解く奄美史、全体を見通すのに大変わかりやすかったです。 県本土、東京から奄美諸島をのぞいた時、今現在でもその感覚はどこかに残ってるのではないでしょうか。②硫黄鳥島は、1953年の奄美群島日本復帰の際に緯度的に一緒に返還されてもおかしくなかったと思いますが、なぜでしょうか? 琉球国が日明貿易の際の有効な資源の産出する島として統治していて、その延長でそのまま沖縄県の行政管轄に入っていたのはわかりますが、南西諸島がアメリカの統治下を経たあとの行政区分の取り決めとしては、北緯27以北にも関わらず飛び地のようにアメリカ統制下の島として何かこだわりがあったんでしょうか。それとも、単に沖縄県領地として返還されなかったんでしょうか。③島尾敏雄氏の考察、<琉球弧のざわめき>は、文学的な論考ではありますが奄美諸島は何か役割を担ってきた、この島々は担っていると感じたりです。 現在の東シナ海は緊張の海、再び浮上してくる<境界>という概念と同時に、前近世的に面的国境という表現なのか、あるいは、甚大な被害、争いを少しでも防ぐための緩衝地帯と呼ぶべきなのか、もちろん日本国として。 いずれにしても、その地理的な位置、文化と自然の共存が育んできたモノは何かしら大事なことがあるのでしょうか、そのあたりを<ざわめき>と島尾さんは表現したのでしょうか、揺さぶられます。 ペリーの件は考えてみたらちょっと不思議でした。確かペリーはアメリカから太平洋を渡ってきたのではなく、東回り、大西洋からインド、マラッカ海峡を経て日本へ来たというの史実だと思いますが、いったん小笠原に行き、そこから南西諸島と往来したのち日本本土へ向かったというのも、結果としてですが興味深い航路だと感じました。④奄振、令和1年〜令和5年の第1総説<1 経過定義の意義> ちょっと、インパクト大きかったです。 「国境離島として国家的役割を担っている」、令和の今日現在、国境離島という事をはっきり明記しているのですね。 <境界>の奄美群島という切り込みで学ぶ奄美史という机上と、今現在の政治的あるいは行政的な判断で明記される<国境離島>という表現は、つかのま乖離しているように感じましたが今なおそこに存在する価値観を見せられました。そこに至り、【世界自然遺産】に登録されたことは大変有意義なことであると益々実感しました。⑤相撲の文化、公民館と土俵ってセット、各集落、そこ聖地だと思います。※講義<102>でサンゴ礁の大きさ?距離?が水温勾配の影響で奄美群島北部と南部で変わってくる、というお話をされてましたが、なぜそうなるのか、教えて下さい。水温勾配とサンゴの発達の関係が今一つ理解できませんでした。17

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