奄美<環境文化>教育プログラムのしおり
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実習では集落散策のフィールドワークを必ず実施します。講義で学んだ集落空間構造の確認が狙いですが、たずねるシマごとに、案内してくださる方の物語があり、環境文化の生きた学びがあります。シマの道路も、直線的に長く続く道路はほとんどないことに気づかされます。それは、海賊来襲の際、攻めにくくするため等とも伝えられていますが、本土地域でも伝統的集落では道路空間の見通し距離は総じて短い様相を示しています。ところが、薩摩藩統治時代に仮屋が設置され、代官等が滞在していた集落(喜界島の湾、奄美大島の赤木名・大熊・矢之脇、徳之島の亀津、沖永良部島の和泊)には、直線的な道路空間が認められ、特に赤木名では方形区画街路が発達しています。行政機関を設置した集落では、薩摩藩の麓集落等を範型として、短期的、計画的に集落空間が改変された結果なのです。集落散策のフィールドワークにおいて、集落空間構造を理解しようとする時、たとえば八月踊りの打ち出しの場所はどこか、たずねてみます。奄美大島中南部のシマでは、神山の麓に営まれる集落の中に「ミャー」と呼ばれる広場があり、そこから八月踊りの打ち出しが始まることが多いと思います。奄美群島のシマの集落空間には、共通して神山・神道・聖泉・トネヤ・アシャゲ・広場等のノロ祭祀の聖地を骨格とする構造が認められます。かつてトネヤ・アシャゲがあった広場に、今は公民館と立派な土俵があります。もともと豊年祭で相撲行事が盛んに行われていましたが、その相撲は沖縄相撲と同じ「組み相撲」でした。日本復帰後に鹿児島県として相撲競技の国体出場が可能になると、昭和30年代に一気に「立ち合い相撲」に転換していきました。組み相撲では使われなかった土俵が、立ち合い相撲の普及によりミャーの広場に作られるようになりました。奄美大島には140を超える土俵があり、「日本一土俵が多い島」でもあります。ミャーの広場・公民館・土俵(宇検村大字宇検)曲がりくねる集落の道44amami-oshima

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